Sunday, February 04, 2007

擬対策



私の娘が大人になる頃、
サーフィンできる海岸がどの程度残っているだろう。
最近、千葉の一宮近辺のサーフポイントを訪れて、
その変わりように愕然としました。
地球温暖化による影響もあるでしょうが、
大半は利権絡みの無駄な護岸工事による砂の流失が原因でしょう。

日本の美しい海岸線がどんどん失われています。
私腹を肥やす事しか眼中にない政治家や役人、
我関せずと無責任な国民 。

徳川260年の泰平は、国民の9割を占め農工商に携わる人々を、
ただお上に従うことだけ考えれば良い、
無責任な人間集団に仕立て上げました。
今の日本国民の大半は、
そうした人の遺伝子を受け継いでいることを忘れてはいけません。

それでも半ばまでは士分がしっかりしていたから良かったものの、
長く続いた泰平の世は頼りの士分をも蝕んでいったのです。

時代はいつも繰り返すようですね。

あまりのショックに昔と比較できる画像を探し出しました。

2001年の千葉 東浪見海岸










2006年の千葉 東浪見海岸








1996年の千葉 サンライズ






2006年の千葉 サンライズ





1980年の湘南茅ヶ崎 中海岸









2006年の湘南茅ヶ崎 中海岸









海岸線だけじゃなくて、
今の日本の街並みも統一感がなくて全く美しさを感じません。

次の3枚は、江戸時代の江戸の街並みです。

パノラマ写真を3枚に切って掲載したものです。




















以下、石原東京都知事の談 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
今から百数十年前の慶応元年にイギリスの写真家、
フェリックス・ベアトによって愛宕山の山頂から撮られたもの。

手前に長岡藩牧野家中屋敷の白い塀が続き、
左彼方には築地の本願寺、右手には芝の増上寺が望まれ
その向こうには浜御殿、今の浜離宮の森が茂り、
さらに江戸前の海が輝いて見える。

寺の伽藍をのぞけばさしたる高層の建築は見当たらず、
ほとんどの主たる建物は二階建てで、
屋根はみな濃い灰色の瓦でふかれ、
壁は白、瀟洒としたモノクロームの町並みが連なっている
パノラマの光景は息をのむほどしっとりと美しい。

当時江戸に滞在していた外国人たちは、
大名屋敷の甍(いらか)に埋め尽くされたこの景観を
「長い道路と、白壁と、灰色の大海」、 と形容していたそうな。

明治に入って新しい西欧風のホテル建築を依頼され来日した
建築家フランク・ロイド・ライトは 初めて目にする江戸の景観に感嘆し、
その日記の中にこれほど瀟洒な街並みを見たことがないと記している。
そしてその感動のままに彼は当初の、
おそらくコンクリート建てによる発想を変えて、
この街にこそ似合った素材を日本中で捜し、
ようやくあの質感の柔らかな大谷石を見つけて
名作の旧帝国ホテルを作ったのだった。
ライトに限らず他の外国人の目にも、
かつての日本の首都江戸は他国の首都と比べて優る素晴らしい
大都市として映り、高い評価を得ていた。
日本近海で難破し
江戸にたどりついたスペイン東洋艦隊の提督フェルナンド・ロドリゴは、
帰国後政府に提出した報告書の中で江戸について
「わがスペインの首都マドリッドにも優る木製の大都市である。
その町並みの整然たる様はマドリッドも及ばない」、
と最大級の賛辞を呈している。

彼らの江戸への相対的な高い評価がいかに尤(もっと)もなものかを、
慶応年間に撮影されたこの江戸の写真は証している。
プリンストン大学の社会学教授スーザン・ハンレーは
彼女の著書「江戸の遺産」の中で、
中世近世は世界的には長く暗い時代で、
人間として満足するに足る生活が出来たのは
貴族等限られた特権階級だけで、
他の市民は抑圧を強いられ続けたが、
江戸の市民は例外だった。
自分がもし中世に生きたとしたなら、
江戸の市民として生まれ暮らしたかったと述べてもいる。

それに比べてこの現代の醜さは逆に息をのむものがある。
それは一言でいって巨大な反吐(へど)としかいいようない。
緑を抹消し代わりにコンクリートででっち上げ、
原色のネオンや看板の氾濫した東京の醜悪さは、
これを、かつて世界最大の人口を備えながら
あの雅(みやび)な江戸を作った同じ民族の後裔(こうえい)
がなし終えたものとは想像し難い。

パリの街のたたずまいはやはり美しい。
というより落ち着いていかにも懐かしい。
それはかつての東京に似たモノクロームな印象の魅力ともいえる。
ドゴール政権で文化相を務めたアンドレ・マルローは、
パリの煤(すす)けた建物の洗いなおしを命じ、
加えて街を彩るネオンサインの色を限ったものに規制してしまった。
それがパリの印象をしっとりと懐かしいものに保つに役立っている。
結果としてマルローのやったことは、
感覚的な都市計画ともいえるに違いない。
比べて、東京に限らず日本の主要な都市のほとんどは明治以後、
近代化という名の下の真似事の積み重ねの上に、
戦災を被った都市にしてなお戦後の無計画のまま、
無性格な態様、不気味な混乱を呈したままにいる。
せめて色彩の統一くらい計ったらと思うが、
それも「表現の自由」とかを盾にされ、かないようもない。
東京は新宿の歌舞伎町のように、
下種な原色ばかりをぶちまけた地域は悪しき特例としても、
思いがけない所で理不尽なほど不似合いな装飾が
町並みの印象をぶち壊しにしていてはばからない。
東京郊外の大学都市国立市は並木の大通りに建設されたマンションを、
その高さが町の環境を破壊すると一部住民が訴訟し大騒ぎとなったが、
その後同じ通りに開店された大型の中国料理のチェーン店の
無神経極彩色な壁に誰かがクレイムをつけたという話は聞かないし、
官邸下の赤坂見付から新橋にいたる代表的なオフィス街に、
これまた悪趣味グロテスクな彩色を施したラーメン屋が
店開きしてもこれを嘆いたり怒ったりする者の声を聞かない。

日本の三大古都の一つである鎌倉が乱開発で変わり果てた湘南の地で
なんとか古都らしいしっとりした味わいを保っているのは、
かつて、早稲田の名誉教授だった建築家の武基雄氏を
建築物に関するアドバイザーに据え、
新規の建物に関して感覚的な規制を行ってきたおかげに違いない。
日本もそろそろ、 せめて感覚的な視点での国土計画、
都市計画を志したらどうかとしみじみ思うのだが......

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さて、前置きが長くなりましたが、 ブログの題の

「擬対策」

幕末に当時の士分の堕落を嘆いた備中松山藩の山田方谷が
「擬対策」を発表してその堕落を戒めています。

【擬対策】

昔は明確な意志の下、胸を締め付けられる想いをしてでも
自分の意見をはっきりという「士」を求めることが
懸命な君主の美徳であり、且つ世を繁栄させるための大切な努めであった。
世を憂い、君主を愛する「士」であれば、
どんな者でもその命(めい)に応えようとするだろう。
この文章を書いている私(山田方谷)は無作法で教養のない人間で、
方や政治のことなど知るよしもないが、日頃より書物を読んでいると、
国を治め世を繁栄させることについてよく考えてしまう。
以前、周易(→儒教4書の一つ)を読んだとき、
「国難に遭遇しても、固く節を守って屈しなければ禍いを免れる。」
とあり、又
「城壁は崩れて堀に復る。」とあった。
ここまで読んで、私は恐ろしくなり、また深く感動した事がある。
「天下ができてすでに長い時間が流れ、
その間には様々な政治や戦が繰り返されてきた。
これは【周易】によるところの
【陰と陽とは循環し、消と長とは互いに推移してゆく】
という事と同じで、このことは古今東西変わることのない定説であると。
【周易】は占いによって天下の吉凶を占うものだが、
その中の泰平の「泰」は「上下志を同じくし、万物通いあう」という意味をもつ。
しかし「泰」はいつまでも良い意味を持つわけではなく、
あるところから「否」に変化する。
これは「衰乱の兆候は必ず盛治の時に形成される」と言うことの暗示で、
【周易】の言わんとすることは明白である。
治乱盛衰の原理を明らかにし、後世を憂慮することほど重要な事はない、
現在国は栄え世は平和で泰平であるが、
こんな時こそ、【周易】の戒めを考えなければならない。
私は最近、主君のすばらしいお言葉を拝読する機会を得た。
主君の識見と度量は遠大で、早くから上の事を考えて、
まるで危乱の世にあるかの如く戦々恐々として、
おそれ戒めておられることを知った。
これを読んだ私は感激に堪えず、
敢えて心の誠を全て申し上げたいと考えた次第である。
考えるに、徳川家康公が徳川幕府を開設し、
幕府存続のために百代続く制度を定めそれを継承してきた。
幕府は祖宗の制度に従い古い習慣を謝ることなく、
国家の法は秩序正しく成り立ち、政令も明らかであったので
四方の国々は喜んで服従し波風絶つことなく200年が経過した。
教育が国の隅々にまで行き渡ったとは言わないが、
常に守るべき道徳が 滅んだことはない。
恩恵が国の隅々にまで行き渡ったとは言わないが、
村里の人々に嘆きの声は聞かれない。
刑罰が十分に整ったとは言えないが、
盗賊が民衆を襲う行為は見られない。
外国の勢力が今や盛んになったとはいえ、
その矛先が我が国に向けられたことはない。
今の日本は実に泰平無事の極みの状況であり、
指摘すべき少しの問題も無い。
現在よりも良い時代など未だかつて無いと言えるだろう。
一般の人々がこれを見て、
この太平の世に何の心配があるだろうかと思うのは至極当然のことである。
しかし、賢明な君主はこの事態こそを心配し、
しばしばこの世を諫める言葉をはかれる。
この戒めの言葉は、
何に基づいて衰乱の兆候を今日に見られたのか私は考えてみた。
現在、世が乱れる兆候が見られるとすれば、
それは「天下の【士】の風紀が衰えて廃れてきたこと」であろうか。
かつて塞水先生司馬氏はこう言った。
「風俗は天下の大事である。しかし凡庸な君主は之を蔑ろにする」
また蘇子瞻はこう言った。
「天下の患いで最も避けるべきは、表面は太平無事のようで、
実体には不測の変事をもつことである」
私もまた現在の世を
「風俗はまさに衰え、
さけねばならない憂いが甚だしいのではないのだろうか?」
と感じている。
ではその理由を詳しく書く。
幕府の基本的な身分制度である「士農工商」、
これら格身分のものはそれぞれに自らの仕事をこなし
「利=利益」を生み出し、その利で生計を立てている。
この士農工商の中で「士」だけは利を生むことは一切せず、
人民の稼いだ利を取り上げて生活し、
しかもピラミッドの頂点に立っている。
これら「士」が利を生み出すことが無くとも全体の上に立っている所以は
「士」の行っている仕事が大きいからである。
その大きい仕事とは何か?「士」のなすべき仕事とは「義」に他ならない。
つまり士の努めるべきは「義」で民の努めるべきは「利」なのである。
行うべき仕事が義と利に分かれているからこそ、
士はこの頂点にいるのである。
我が国は東アジア、太平洋の表玄関に位置し、
諸外国に勝る問いも劣らぬ場所にある。
国民は東アジアでも最も優れたこの地域の「気」をうけて生まれている。
そのため日本人の本性は非常に意志が強く、物事に動じない、
そして決まり事に厳しい気質を持っている。
「士」は気性が強く信念を曲げず「義」を尊ぶ気質がある。
これらの気質は日本人が自然に与えられたものである。
「大節ニ臨ンデ奪ウベカラズ、危キヲ見テ命ヲ致ス」
という孔子の門下の教えを日本の武士は教えられずとも知り、
習わずとも行っている。
この日本人が持ち合わせているはずの気質が、
本来風化してゆくものならば、それを尊び養い育ててゆかなければならない。
200年前の幕府開設当初は家康公の「徳」により
「士」は民衆の上に立った。
そして武士達は武士道を尊び、
民衆の先頭に立って「徳」を増やして行くことにより「士」を維持してきた。
本来の武士は偽ったり欺いたりせず、
真実で正しい道を守ることを尊んで、財利について口にすることを恥とし、
「事」が起きたとき、それを回避したり恐れたりするものは卑怯者と笑い、
欲深く、人に媚びへつらう者は汚らしい人間として考えてきた。
公には上司に媚びへつらう者もなく、
民百姓も「士」に私的な依頼をする者無く、
「私欲がなく正直で意志がしっかりしていて物事にひるまない」
という武士の士風が今よりも秀でていた。
天がここに太平の象徴を開いたことは決して偶然ではなかった。
以来、太平の世は久しく続き、士風も気風も日々弱まり、
今日に至ってはその弊害はまさに極まってしまった。
今や「士」は軟弱で外見を飾ることや、
人頼みやへつらうことが常態になってしまった、
策を講じ縁故に頼って何につけても頼み込むことが仕官の方策となり、
少しばかりの利害にあわてふためいたり、避けたりして全く抜け目がない。
その上、それを自分では上手くやっていると思っている。
たまたま剛毅で正直な「士」が出てきても馬鹿だとか
古くさいとおとしめたり軽蔑したりする。
ああ、今と昔がそんなにも隔たっているわけでもないのに・・・
士風がこんなにもひどく変化したのは他でもない、
昔の「士」は「義」を尊んだが、
の「士」は「利」を好み、
自分たちが本来努めるべきものが何かを見失っているからである。
そもそも「義」と「利」は両立しない。
利をむさぼる気持ちが心の中に蔓延すると、必ず義はその居場所を失う。
自分の中の「義」が居場所を失うと自分を愛する心が日増しに強くなり、
国を憂う心は日々薄れてゆく。
泰平で平和な日が続くと、上にへつらうことで地位を盗み、
公明正大な公務を怠る「士」が増加する。
そんな者が仮に一つ二つ良いことをしたとしても、
それは自分の名声や富を得たいからという私心からなったことで、
心から国を思ってのことではない。
これら弊害はもはや我慢できるレベルと超えてしまった。
このような常態で、
万一国に何か事態が起こったとき果たして対応ができるだろうか?
本来、君主は「士」を雇う意味はなにも使いっ走りをさせるためではない。
自分の手足として働き、腹心として用い、
それによって国のために何かをしようと言う真心から雇っているのである。
しかるに君主に使える「士」がこのような有様では、
民百姓の心血を搾り取り役立たずを養っている事になる。
そうではあるまいか。
悪ははびこりやすい。
幕府開設よりわずか200年しかたっていないのにも関わらず、
士風はこんなにも変わってしまった。
今これをあらためなければ、
100年後にはどうなってしまうのか想像もつかない。
土砂崩れのような災いが一度起こると、
霜が積み重なってできる硬い氷のような災いが知らぬ間に積み重なってくる。
そうなると、どんな賢者がいたとしてももうどうしようもない。
また、風俗の変化やりをむさぼる心は、
政治や教育が問題であるという議論もあるが、
事を細かく見てゆくと、その大部分は財政が窮乏(きゅうぼう)したため、
「士」達が貧乏を憂いている事に原因があるようだ。
では、何故そうなってしまったのかを考えてみる。
今日の日本国内には百数十の藩が存在するが、
その中で財政の収支が健全で、
今後3年間程度の蓄財がある藩はほとんど無いと言ってもよい、
反対に支出が収入の倍ほどもあって当座を借財で取り繕っている藩は
7~8割にものぼる。
しかも、このような問題のある藩に限って、
そのような行為が財務の基本に反していると言うことすら知らず、
その場しのぎの小手先の技を重んじて、
借財や厳しい税の取り立てなどの手段を講じている。
卑しいどん欲さで「利」を上げることばかりが盛んで、
心を清く保ち「義」と尊ぶ気風は滅んでしまっている。
さらに、このような風潮の中で小手先の達者な者が「有能」とされ、
これに異議を唱える者は時事に疎い者として退ける。
人事考課もこのような考えを基に選考されるため、
「利」ばかりを追求する濁った風潮が「士」の世界に蔓延し、
出世をねらう者は我先にと利害を荒い奔走する。
士風が変化してしまった原因はこのあたりにあると思われる。
そこで私は考えた、素風の衰えを憂慮し「士」を本来の姿に戻すためには、
財政の窮乏を救へば良いのではないか?
家康公が幕府を起こしてからは封建制度は盛んとなり、
それが我が国の基本法となった。
藩それぞれには大小があり、
それぞれいろいろな特色があり同じではないが、
各藩はそれぞれ分相応の制度を定め藩を運営したので、
藩の金庫が空になり公費が不足することなどあり得なかった。
そもそも幕府創設初期には兵役や築城、戦など出費は今の比ではなかった。
しかし、各藩ともに資金は足りており、
今のように借財で財政を補う様な悪しき習慣があったなど聞いたこともない。
幕府創設より僅か200年、
その間基本的な藩収入が昔より減ったわけでもなく、
参勤交代などの行事が昔より増えたわけでもなく、
家臣達への給与が昔より非常に多くなった訳でもない。
関ヶ原の時のような戦争も一度もない。
それなのにである昔は足りていた藩費が、
今は足りていないというのはどういう事であろうか!
その原因はどこにあるのか!
結論から申し上げると、賄賂が公然と行われていることと、
役人の身分に過ぎた奢りが盛んになったことの2つ以外にない。
この2つは泰平が続いた後に必ず残る弊害であり、
平和のうちに醸成され、必ず国家を乱し衰退をもたらすものである。
これらは今後に及ぼす影響も深刻である。
またこれらは昔から何度も繰り返されてきた事実で、
この2つの弊害を取り除かなければ財政を救うこともできないし、
士風を喚起することもでず国家の衰えを止めることもできない。
では、いかにすればこれをあらためることができるのか?
方策は一つしかない。
賢明な君主と政治を預かる重臣とが心を一つにして、
深刻に反省し事態を正確に把握した上で、
一つ一つ確実に改めて行く事である。
そうすることで初めてたまりにたまった悪弊と汚れを一掃できるのである。
だいたいの要旨は以上であり、これ以上くどくどという必要もないが、
大まかな要点を上げる。
賢明な君主が事の大綱を把握し、私利私欲を押さえることで
初めて家臣らの度を過ぎた贅沢を押さえることができる。
重臣は心が清く私欲がなく、正しい行いをする。
自宅などの密室での密議は行わず、
これで初めて天下に横行する賄賂を禁止することができる。
明主と重臣は天下善悪の根本であり、
すべての人民は明主と重臣を見る事でそれに従う。
上に言う2つの弊害が古くからあり、深まっていたとしても、
明主と重臣の行いにより一朝にしてあらためることができるのである。
明主と重臣は身を潔白に保ち正しい行いをし、
弊害に真心を持って取り組み、万民の上に立って努めれば
繁栄を手にすることは歴史の上からも間違いない。
今の現状は憂うことではない、
今こそが天下万民が幸せになるスタート地点なのだ。
さて、私の様な財政を語る身分にない者が政治を論じ
厳しい意見を言う結果となってしまった。
本来ここまで言うつもりはなくそのような意図もなかったが、
我が名君の「徳」に感動し、黙っていることができずについ書いてしまった。
このようなズケズケとした直言は死罪にも値する事で、
これがすべて取り上げられるとは思っておりませぬ。
しかし、周易の「一治一乱、泰否相変」の原理は
天地自然の常道であり、過去の聖人達の言葉である。
英知に優れ時事に通じておられる名君であれば
今の事態をゆゆしきことと感じておられるはず、
愚かな私も常に心に掛けており、現在の治乱盛衰の原理を語ってみた。
家臣のいさめの言葉を真摯に受け止め、進言の士を進んで徒用し、
天下の知恵を取り入れて政治を行われるのであれば、
耳の痛い言葉も日を追うごとに御前に並び、政治の掛けている部分、
風習の悪所は日ごとに改められ補われる、
そうなれば私の戯言などとるに足らぬものとなるでしょう。

これが実に今日の献言の本旨であります。 (口語訳)

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